1976年7月31日、茂螺湾で最初の化石が発見されました。この発見によって多くの人たちが、まるで運命にみちびかれるように、協力しながらいろいろな研究活動を行い、いまでもその活動は続いています。それは、研究者だけではなく、ごく一般の人たちも活躍しました。この活動は、全国でも類を見ないユニークなものです。化石のほとんどを発見したのも農業をしていた方ですし。ふつうの主婦が、試行錯誤を重ねながらし化石のクリーニングやレプリカ作りに取りくみ、今では博物館に展示できるまでになりました。
足寄町を舞台にくりひろげられている、この活動がどういうふうに進んできたかその一部をご紹介します。
1. 発見!
今から22年前の1976年7月31日、それは夏の暑い日でした。一人の学生が、茂螺湾川を歩いていました。彼は、当時北海道大学の大学院生の木村学さんといい、地質調査のため足寄に来ていたのです。ふと足を止め上流を見ると、川底に何か石とは違うものがあるのに気づきました。
2.こんな歯
「おや?これは何だろう?...........化石だ!しかも何かの骨だ!!」興奮しながら彼はその化石を写真に収めました。あまりに、興奮していたのでその中の1枚は、きちんと写っていませんでした。
3. どれくらい?
8月13日、木村学さんは、地質見学をしていた北大のメンバーと合流し、当時助教授だった松井先生に茂螺湾川の化石のことを話し、みんなで確認することになりました。現地に着くと、準備したタガネで丁寧に化石の広がりを調べました。
4.1体分?
「これは、1体分の化石があるかもしれないぞ!」化石が発見されたのは川底なので、台風で大水が出ようものなら、流されてしまいます。近いうちに発掘をしなければなりません。簡単なスケッチと写真を撮り、ビニールをかぶせて応急処理をして現場をあとにしました。
5. 発掘開始
札幌に帰った松井先生は、忠類村でナウマン象を発掘した十勝団研のメンバーと連絡を取り発掘の準備を進めました。そして9月3日、十勝団研と北大のメンバーで、いよいよ発掘が始まりました。
6.新聞記者も
しんちょうに掘り進めるうちに歯が発見されました。その直後に、北海道新聞の記者が、かけつけてきました。数年前に本別町でデスモスチルスの歯が見つかり、図書館に通って勉強したという”デスモ記者”でした。
7. 足寄町は大騒ぎ
次の日の北海道新聞の朝刊にラワンの発掘が報じられ足寄町は大騒ぎ。ひとめ見ようという人たちで、静かな山の中の豆畑の道が渋滞するほどでした。
8.みんな見学
忠類の発掘で経験豊かなメンバーは、説明係、発掘係、交渉係、記録係を作りすぐさま対応しました。近くのラワン小学校の全校生徒もスクールバスで見学に来ました。
9. 発掘終了
発掘が進むにつれ、頭、首、胴、足、そして歯が次々と発見され、ほぼ1体分の化石が掘り出されました。化石は、こわさないように木箱に大切にしまいました。嵐のような4日間が過ぎなんとか発掘を終了しました。
10.発掘メンバー
このとき発掘に当たったメンバーの中には、現在も足寄の化石の研究を続けている木村方一教授や犬塚則久博士、現在大学の先生をしている方も数人おり、そうそうたるメンバーでした。